リッチゆかりは、
10代の多感な時期を
故郷の鹿児島で過ごしました。
子供の頃は、
雲を見るのが好きでした。
同じ雲はひとつもなく、
どんどん変化することが面白く、
ずーっと
眺めていることができました。
いい匂いに敏感で、
お菓子の箱を
捨てることができず、
引き出しは
チョコレートの空き箱だらけ
でした。
いつも叱られ、
夢を語ると笑われ、
認めてもらえない孤独さは、
チョコレートの空き箱のにおいで
和らいだ感じがしました。
子供の頃の
そんな気持ちを箱に入れ、
カギをかけたまま、
18歳で東京に飛び出し、
美術を学びました。
やがて、
アメリカ人の主人と出会い、
1998年に結婚。
以前から想いのあった
福祉の世界に
飛び込みました。
駅の近くの
家政婦紹介所の看板を頼りに、
最初は家事手伝いを。
そのころ
ようやく世の中にでてきた
ホームヘルパー2級の資格を
取得しました。
家庭訪問型の
ヘルパー業務を3年経験後、渡米。
新天地アメリカ
イリノイ州シカゴで体感した、
光と影。
生きる、ということを
考えさせられる毎日。
銃声が響く。
道端には血痕がべったり。
その脇に寝ている人・・・。
目前に広がる
光景の異常さ、
経験したことのない
治安の悪さ、凍りつく寒さ。
大学院生の主人は、無収入で、
日本での貯金を切り崩しながらの
生活でした。
どうやったら
ここで生きていけるのか。
2003年7月
2年のシカゴ生活を終えて、
カリフォルニア州
サンディエゴへ。
引っ越しても
主人の就職先は、
見つからないまま。
ワタシの40歳の誕生日に
電話で母にその近況を伝えると
厳しい言葉を浴びせられた。
言われることは
「もっとも」で「理想的」
だけれど
人には
できる時とできない時がある。
世の中には
正論だけではまかり通らない
厳しさがあると学んだ。
不安に
押しつぶされそうになりながらも、
新天地での
初めてのクリスマスが
訪れようとしていました。
クリスマスギフト、どうしよう。
高価なものは買えない。
・・というか
少しでも節約しなければ
生きていけない。
ふと両手を見れば、
超敏感でひどい乾燥肌の自分を
放置してきたと気づきました。
渡米してからずっと、
日々を過ごすのに
必死だったんですね。
さあ、どうしよう。
運よくたどり着いたのが、
手芸品店で売られていた
手作り石鹸キットでした。
本当に困ったとき、
人は「創意工夫」を
するものなのですね。
自分の肌を
みるみる改善してくれる石鹸。
大事な人への
贈り物にもできる石鹸。
手作りのオリジナル石鹸への
目覚め。
それは、
クリスマスという
神様の誕生日が
ワタシに思いつかせてくれた
奇跡の出会いでした。
それからは、
ひたすらに、
試行錯誤の繰り返しです。
ただ作るのではなく、
創意工夫のもと
「こしらえる」という意識で、
石鹸に向きあいました。
転機は、
ファーマーズマーケット
への出店。
アーティスト2年待ちの
サンディエゴで
一番大きなマーケットで、
店を構える
日本人オーナーたちとの
ご縁をいただき、
ダウンタウンでの
小売り販売、
スパでの
オリジナル商品開発を
手がけました。
時は
リーマンショック後の
アメリカ。
某
オンラインショップからの
オファーで、
たった1種類の
「ゆかり石鹸」を年間1000個完売。
その後も
4年にわたり扱われました。
石鹸をこしらえることは、
暮らしだけではなく、
心と身体を
支えてくれました。
2010年10月、
母が
クモ膜下出血で倒れた折も、
術後リハビリの必要な
鹿児島の母のもとから
サンディエゴに
2週間だけ戻り、
石鹸を250個と
主人の ごはんストックを
こしらえました。
3か月の間に
日本とアメリカを3往復。
思えば、
驚異的な
スケジュールでした。
前後して、
小売店の
販売促進のための
オリジナルブレンド
エッセンシャルオイルを創作。
その香りの手作りせっけんを
年間5300個
こしらえました。
1か月で
実に600個以上。
もちろん
ほかのオーダーも並行して
こしらえる日々。
石鹸の材料の手配、
管理、こしらえ、
包み、仕上げを
たったひとりで
やりきったんです。
お客様から
「ゆかりさんが、
石鹸に埋もれて死んじゃう」
と
心配されるほどでした。
朝7時から
夜中の2時、3時までの
フル稼働体制の私に、
主人は
口癖のように言いました。
「お願いだから、
今日は寝てください」と。
けれど、
やりきりたかった。
なんとしても、
やりきりたかった。
趣味の範疇を超えるために、
1万はこしらえなくては、
その先には行けない。
そう思っていたからです。
気がつくと、
とっくに
その数を超えていました。
自分のなかで
何かが弾けた瞬間でした。
・・歩み② 障がい者支援とゆかり石鹸