↑2016年5月8日、
母のもとを離れる前に
手の写真を撮りました。
手仕事で生きた母の手。
お母さんの手。。
翌5月9日、
母は天に召されました。
のつづきです。
父の急逝後、
実家に一人で暮らすことが不可能な
母が選んだのは、
生まれ故郷の
ケア付きのシニアハウスに
移ること。
運よく、
鹿児島中央駅から
在来線で50分ほど離れた
母の生まれ故郷の駅前に
部屋を
見つけることができました。
突然に父を失い、
住み慣れた自宅を離れることは、
度胸のある強気な母を
心細くさせたのか、
ぽつりとこう言いました。
「ゆかりちゃん、
毎日来なさい。」
期間限定で
相続などの手続きに
めどをつけなくてはならない
ワタシは、
実家からシニアハウスまで、
バスと在来線を乗り継ぎ、
往復4時間かけて
毎日通いました。
午前中は、
市役所や銀行に。
午後一番で
在来線に飛び乗り
シニアハウスへ。
2時間ほど滞在し、
夕方実家へ。
帰ってからも、
各種相続、
介護保険など
翌日の手続きの整理や
準備で、
毎日があっという間に
終わる・・・
その繰り返しでした。
追い打ちを
かけるように、
同時に
実家の売却手続きも
始めなくては
なりませんでした。
不動産業者に
会う前に、
不動産売買の
勉強が必要でした。
実家の片付けも
ひとりで行いました。
このころ、
何を食べて
どうやって
睡眠時間を確保していたのか、
記憶が途切れています。
多忙を極め、味覚を失い、
口唇ヘルペスに
なりました。
努力の甲斐あって、
良いご縁をいただき
6か月後に
売却手続きが完了しました。
実家の売却には、
名義人である母の承諾、
意思表示が必要不可欠です。
なので、
しっかりと物事の判断が
できるうちに
終了させることが目標でした。
数字に強く、
何でも器用にできる母に
変化が起き始めたのは、
2015年の春頃
だったでしょうか。
実家売却から
約4か月後のことです。
母に認知症らしき症状が
いくつも確認されたのです。
叫びたくなるような出来事に、
ひとり
黙々と対応しました。
寝るときに
身体をさすりながら、
細胞に語りかけました。
「細胞ちゃん、がんばってね。
あなたが頼りです。
一緒に
最善を尽くしましょう!」
自分の体力と気力だけが
頼りでした。
2015年5月19日、
母、精神科受診。
時に癇癪を起す
母の気持ちを尊重し、
ワタシは
シナリオを書きました。
母が最も信頼を置く
主治医の先生にお芝居までして
もらいました。
甲斐あって、
無事診察診療。
その日から
認知症の投薬開始です。
お世話になっていた
シニアハウスは、
認知症があっても
問題行動がなければ、
そのまま
住むことができました。
けれども、
次の準備は必要です。
「グループホームの
空きがでたら、
移動しましょう」
ケアマネージャーさんや
シニアハウススタッフさんと
そう打ち合わせをして、
いったん
サンディエゴへ戻った3日後。
事件は、起こりました。
母が夜間に徘徊したんです。
無事保護されたものの
大騒ぎになり、
ケアマネージャーさんから
長文のメールが届きました。
「ゆかりさん、
帰ってきてください。」
その日は
仕事のことでも対応しなくては
ならないことがあり、
久しぶりに徹夜しました。
焦りませんでした。
憤りもありませんでした。
哀しみもしませんでした。
ただ「何ができるのか?」
最善策を練りました。
どんな介護用品が
日本にはあるのか?
検索し、
いくつか
ケアマネージャーさんに
提案しました。
結局、
徘徊を防止するための
ブザー付きマットを
母の部屋の前に
設置することに。
購入しなくても
リースで対応できました。
道は、必ずある!
予定通り
アメリカでの2か月の日々を送り、
さあ、
あと24時間で
日本行のフライトだ、という
その時
── 突如、座骨神経痛に襲われ、
動けなくなりました。
ダイニングテーブルの下で
うつぶせになりながら、
細胞に語りかけました。
「細胞ちゃん、
12時間のフライト、
成田から羽田への移動、
羽田で一泊、
翌日羽田から鹿児島へ
フライト、
鹿児島空港からリムジンバス、
徒歩で自宅まで。
この流れ、
絶対に予定変更できないので、
ワタシに
力を貸してください」
とにかく、イメージしました。
鹿児島に
たどり着いている自分を。
そして、翌日。
ロボットのように足を引きずり、
超スローな歩き方で、
ワタシは
サンディエゴ空港にいました。
心配そうな主人に、
泣きながら笑顔で手を振り
「大丈夫。行ってきます!」。
それから、
12時間のフライトを、
どんなふうに耐えたのか、
記憶がありません。
上空に異変はなかったのに、
鬼怒川が決壊していました。
そのニュースを
目にしたことだけは
覚えています。
リスクを察知するセンサーは、
働いていたのでしょう。
無事に日本にたどり着いた
そのこと自体、
ありがたい特別なギフト。
心の中で
手を合わせました。
なぜかその時、
万が一のリスクを回避するために
初めて
羽田ターミナル内にあるホテルを
予約していたのです。
羽田空港からホテルへ
移動する労働力が省け
ホテルのスタッフに
荷物を運んでもらうことが
できました。
羽田空港から離れた
そのころの定宿を予約していたら、
身体が痛くて
たどり着けなかったかもしれません。
それ以降、
羽田ターミナル内のホテルが
定宿となりました。
翌朝7時半。
携帯が鳴りました。
「ゆかりさん、
グループホームにひとつだけ、
空きが出ました!」
ケアマネーージャーさんからの
弾む声でのご連絡でした。
なんという幸運!!
10人ほど
待機者がいたものの、
諸事情がある母に
幸運の切符が手渡されたのです。
さあ、
羽田から鹿児島に移動する日の、
そこからが本番。
以前いたシニアハウスは
母のお気に入りの場所でした。
そこから
グループホームに移動することを
母本人に
理解してもらわなくては
なりません。
癇癪を起さないように
シナリオを書いて、
主治医の先生、
ケアマネージャーさんに渡し、
決行。
全てがスムースに、
問題なく終わった時、
一筋の涙が流れました。
哀しいからではなく、
うれしくてありがたくて
・・・疲れと安堵の涙でした。
グループホームの
母の部屋には
「あじさい」
という名がついていました。
6月生まれの母に
ぴったりの名前。
あったかな雰囲気、
きれいなお部屋。。
母は気に入った様子で、
みるみる馴染んでいきました。
癇癪をおこし、
訪問先の病院では医師を困らせ、
大きな声で文句を言う
母の車いすを
泣きながら押したあの日々は、
もう遠い過去のことのよう。
穏やかであることは
ありがたいことでした。
ただ、
母はいつもどこか遠い何かを
見ているようでした。
会いに行くたびに、
母の存在を遠く感じる時が
増えてきました。
ワタシを見て、
姉の名を呼ぶ母。
ワタシという存在が
母の中で消えたことを
知った時の衝撃。
その寂しさは
子供の頃から母に愛されたかった
ワタシへの
更なる試練でした。
心のトレーニングを
していなかったら、
とっくにポキッと
音を立てて折れていたでしょう。
しかし、
寂しさをおしのけるように、
ある不安が頭をもたげました。
ひょっとしたら、
母の持ち時間が
少なくなっているのかもしれない。
20年間は介護するつもりで
準備を整えていたワタシは、
その日、
初めて氣が弱くなりました。
2016年5月8日、
母の日にカーネーションを持って
訪ねた時、
ふと、
母が遠くに消えてしまいそうな
そんな気がしたのです。
翌5月9日午前8時11分、
母は旅立ちました。